タナカマモルになりたい山田テルコ、あと象(『愛がなんだ』について思うところ)
※所々ネタバレ気味なので、ご覧になってない方はご遠慮ください。(気にしない方はもちろんお読みください)。
先日、話題の『愛がなんだ』を観てきました。
正直な感想としては「テルちゃん、ウザァ…」であった。
いや、映画はすごく面白かった、むちゃくちゃ良かった。
だからこその「ウザァ…」である。
テルコのような子がいるのもわかるし、あのような事をやってしまいたくなる気持ちも、まぁわからないでもない。
みんなの気持ちが少しずつわかって、全然わからない、というモヤモヤした気持ちになるのだった。
とまぁ率直な感想は置いておき、いくつかの疑問がこの作品にはあった。
個人的に最後まで引っかかっていたのは、テルコの「わたしはタナカマモルになりたい(いまだになれない)」という独白だ。
なんでテルちゃんはマモちゃんになりたいのだろう、と考えていた。
「その人になりたい願望」について色々調べたがしっくりくるものはなかった。
そしてふと思い当たったのが『生きてるだけで、愛』という映画の、とあるセリフ。
こちらの作品は、鬱のせいで仕事もできず日がな一日アパートでゴロゴロしているヤスコ(趣里)と、会社でやりたくもない仕事を黙々とこなしながら家では甲斐甲斐しくヤスコのお世話をするツナキ(菅田将暉)、というヨウコさんとナカハラくんの最上級みたいな作品である。
この作品のラストで、ヤスコはツナキに言う。
「ツナキはいいね、私と別れられて。私は私と別れられない、一生ね。いいなぁ、あんたは」
と泣くのであった。
それを思い出して、あのテルコの独白が腑に落ちた。
テルコがマモルになりたいのは、マモルと一生離れることがないからだ。
マモちゃんになってしまえば、ずっと一緒にいられる。
だからテルコはマモルになりたいのだ。
なんとなくそう思った。
でもそうだと思う。
タナカマモルがそんなに好きではないテルコでいるのももう嫌で、けれどもタナカマモルが好きなすみれさんにはなりたくない(すみれさんとマモルが付き合えるかどうかわからないしずっと一緒にいれる可能性があるわけでもない)。
それならいっそのことタナカマモルになってしまって、一生そばにいたいのだ、たぶん。
あとは象の意味するところも気になるポイントだ。
今泉監督曰く、象のシーンは「群盲象を評す」というインドのことわざだか物語だかに着想を得て取り入れたとのこと。
複数人の目の見えない人たちが、象の一部をそれぞれが触ってどういう生き物かを評するのだけれど、意見が一致しないという話らしい。
本作での象が意味するところって、要するに愛ってことでしょう。
それぞれの立場で愛し愛され、愛について語るのだけれど、結局みんなが持ってる愛の形はぜんぜん違った。
だからすれ違ったり反発したり諦めちゃったり、または変容してみたりするわけで。
ラストショットのテルコは、なぜか象の飼育員になっているのだけども、テルコが急に象の飼育員になるというのは現実的ではないので心象風景としての飼育員なのだろうな。
あれはマモルへの愛を上手いこと飼いならした(少なくともテルコの中ではそのつもり)、ということと受け取りました。
あとはね、ナカハラくんとすみれさんが本当に素晴らしいキャラクターでこの人たちをずっと観ていたいと思いました。
自然な台詞回しと存在感。
すみれさんは一緒に飲みたい女性ナンバー1だし、ナカハラくんはラーメン奢りたい男ナンバー1やでぇ。
すみれさん、ずっとあのままでいてほしい。
そしてナカハラくん、しあわせになってな。
ただの物語だけど、ほんとそう思った。
いい映画だったな。